心身を守るために距離を置く
私は父方の祖母が嫌いだ。
その祖母とは同居しているが、お互いに必要最低限の接触しかしない。
祖母は気性が荒く、正直関わりたくないということもあるが、他にも理由がある。
祖母は、私が大好きな曾祖父母をいつも口汚く罵っていたのだ。
誰しも年を取れば、それまでできていたことが上手くできなくなる。
上手く排泄ができない。上手く食事ができない。
曾祖父母もそうだった。
それを祖母は、汚いだの臭いだのと、本人の目の前で常日頃から口に出していた。
幼かった私には、そういう祖母の言動が一切理解できなかったし、今も軽蔑している。
家族だからといって、必ずしも好きでいなくてはいけないルールなんて無い。
嫌いなものは嫌いなのだ。
それでも近年は、家事を手伝うなど、少しずつ歩み寄ろうとしていた。
祖母も年を取り、できないことが増えてきたからだ。
会話も少しはするようになっていた。
だが最近、祖母に優しくすることが本当に辛いと感じるようになった。
自身の発病で心の余裕が無くなり、嫌いな人に何かをしてあげる際に、自分の心に蓋をして、一つハードルを飛び越えることがより苦痛になった。
それでも頑張ってはいた。
しかし、語りたくないため詳細は伏せるが、つい先日祖母から罵声を浴びせられたのが決定打となり、もう祖母の全てが無理になってしまった。
限界だった。
それから私は、祖母が起きている昼間は家を出て、図書館やファミレスなどにこもるようにしている。
自分の心身を守るために、距離を置くことにしたのだ。
現に今も、図書館でこの文章を書いている。
食事代などお金はかかってしまうが、心をすり減らすよりよっぽど良い。
学校さえ始まってくれれば学校にこもれるのだが、今のうちは仕方がない。
私が祖母を嫌いなことは、母はよく知っている。
しかし、本当に無理になってしまったことは知らない。
祖母の一言で深く傷ついたことも知らない。
以前「助けを求めることにも練習が必要」だと書いたが、そのタイミングは今なのだろうか。
正直よく分からない。
でも、外に出て本を読んだり、ブログを書いたり、食事をしたりするこの時間は、皮肉にも私にとって息抜きになってしまっている。
だから別に、誰かに言うことでもないのかなと思っている。ブログのネタにはしてしまったが。
いつまでこの生活が続くのかは分からないが、いっそ楽しんでしまおう。
明日はどこで何を食べようかな。
リア垢を見るのが辛い
Twitterのリア垢を見るのが辛い。
健康体で、仕事もあって、趣味もある程度充実している友人たちのツイートを見るのが辛い。
特に健康は、どうあがいても私が今すぐには手に入れられないものだ。
友人たちのツイートを見ることで、自分が僻み妬み嫉みにまみれてしまうのが怖い。
そのため、心身の調子が傾きはじめ、休学を決めてからは、私はリア垢に浮上していない。
浮上するのを止めてから、もう1年になる。
今友人たちはどうしているのか気になることはあるけれど、リア垢を覗くことで自分がダメージを受けることの方が辛い。
リア垢に浮上しないことで、LINEで直接「元気?」と聞かれることが多くなった。
元気じゃねえよ、人の気も知らないで。と思ってしまうが、そう返すわけにもいかないし、私は態度くらい一人前の大人を取り繕いたいので、「元気だよ。」と返信する。
でもその度に胸がズキズキ痛んでしょうがない。辛い。
だからといって病気のことを言えば心配をかけるし、何より言いたいと思わない。
助けを求めるにしても、相手は選びたいよ。
結局、黙って元気なふりをするしかないのだ。
自分と両親とパートナーと、ごく少数の親友だけが分かってくれていればそれでいい。
うん。それでいいのだ。
でも正直、大学院の年数やシステムなんて分かってない人の方が多いんだから、気にせず新学期迎えたらリア垢に浮上しようかな、と考えている自分もいる。
また勉強をはじめて「自分も何かを成し遂げている」感を得ることで、気持ちにもう少し余裕が出てきたら、友人たちの充実しているツイートを見ても、少々胸がチクチクするくらいで、うまいこと受け止められそうな気がするのだ。
それにもし何か突っ込まれたとしても、コロナを理由にして、「やりたい研究がコロナでできなくなったから1年休んじゃった。」とでも言ってしまえばいいのだ。そうだそうだ。
ここまでくると浮上のタイミングも大事かもしれないが、気にしすぎずにふら~っと浮上できればいいかな。
あーあ。
今はまだ無理でも、リア垢を見るのが全く辛くなくなる日が来ればいいなあ。
助けを求めることにも練習が必要
病気のことを一番理解してくれている母に、先日先生と会ってきたことを話した。
「あなたは自分をさらけ出すことが苦手でしょう。でも、言われなけば周りは分からない。もっと助けを求めるようにしなさい。」と言われた。
ごもっともである。
しかし、助けを求め慣れていない人間がいきなり助けを求めようとしても、上手くいかないのだ。
しないのではなく、できないのだ。
幼い頃は別として、病気になる前も、その後も、母に縋り付いて泣いたのは、病気になってから精神が限界に達した1度きりだ。
限界にならなければ、辛い、しんどい、苦しいといった気持ちを吐き出すことができなかったのだ。
災害に備えて避難訓練をするように、試験本番に向けて試験勉強をするように、助けを求めることにも練習が必要だと思う。
幸い、私の病気を知っている人たちは皆理解がある。
少しずつにはなるが、辛いときは人を頼り、助けを求める練習をしなければと思う。
いつか振り返ったとき笑っていたい
私は今大学院の修士2年生だが、今年度いっぱい休学している。
(3月の今「今年度」と使うと少々ややこしいが)
休学理由は、まあ、よくあるように病気だ。
詳しい病名は伏せるが、病気になったことでだいぶ身体的にも精神的にも参ってしまった。
ただ、休学したことで、いくらか状態は安定している。多分。
そして新年度、4月から復学することになった。
復学するかはかなり迷ったが、親が「途中でやっぱり無理そうなら辞めてもいい」と言ってくれたので、また挑戦することにした。
本気で退学・就職を考えたこともあったが、研究が中途半端に終わってしまうのは確かに気持ち悪かった。
でも、心身がもつかも分からない。
そんな私にとって、無理そうなら辞めてもいい、というのは救いだ。
母だけでなく、厳しい父までそんなことを言ってくれたのは、正直驚きだったけれど。
そして復学にあたって、主指導教員と面談してきた。
面談とはいっても、カフェでちょっとお茶をするという程度のものだった。はずだったのだが、気づけば3時間もお時間を頂戴していた。
休学明けのこと、研究のこと、就職のことなど、悩んでいることをほぼ全て話し切ってしまった。
今回の休学に限らず、私は遠回りをしがちだ。
楽な道が確かにあるのに、逆方向に進んでしまう。
そして後になって後悔する。
その繰り返しである。
そんな自分がものすごく嫌だと、思わず先生に吐露してしまった。
涙が止まらなかった。
だが先生は、自らの休学経験を引き合いに出しながら、「遠回りをすることで見える景色がある。大丈夫。いつか振り返ったときにきっと笑えるはず。」と言ってくださった。
長時間拘束してしまったうえに、私の話は終始とりとめが無かったのではないかと思う。
先生は「今日は五十鈴さんの話を聞くために来ましたから!」と言ってくださったが、それでもお忙しい中申し訳なかった。
しかし、先生に悩みや不安をお話ししたことで、不安でしかなかった新年度が少しだけ楽しみになった。
途中で辞めてしまう可能性がある、ということも勿論お伝えした。
先生は、どんな選択をしても尊重すると言ってくださった。
全て受け止めてくださった先生には感謝しかない。
私もいつか、今を振り返って笑えるだろうか。
できることなら、そのとき笑っていたい。
東日本大震災 あのとき ②
ライフラインが復旧したときの感動は忘れられない。
テレビが見られる、お風呂に入れる。
そうやって日常を少しずつ手繰り寄せ始めるにつれ、目や耳に入る情報が一気に増えた。
「ああ、自分は被災者なんだ。」と改めて痛感させられ、何とも言えない気持ちになったのを覚えている。
私の住む地域は、津波の被害は無かったため、復興が比較的早く進んだ。
震災前と完全に同じではないが、日常を取り戻すことができた。
しかし、個人的に本当に嫌になったのはそれからだった。
震災後、「人と人との繋がり」だとか「絆」だとかいうテーマで作文をさせられることが増えた。
何度も、何度も何度も書かせられた。
それに私は心からうんざりしていた。
同級生は当然のように震災時の経験を書いた。
私にはそれが、震災のことを都合のいい・丁度いいネタにするような行為に思えて、どうしても嫌悪感を拭い去ることができなかった。
次第に、震災について語ることまでもが嫌になった。
風化させてはいけないことだと分かっていてもだ。
私は、震災について何も話したくないし何も聞きたくない状態になってしまった。
時は過ぎ、学部時代、震災をテーマにした授業があった。
もうそれにすら嫌悪感を抱いてしまい、授業評価アンケートをボロクソに書いたのを覚えている(ごめんなさい)。
そんな私が何故今、震災について書く気になったのか。
それは、曾祖母が亡くなり、戦争についての話をあまり聞くことができなかったと後悔したからだ。
一見繋がらないように見えるかもしれないが、私の中では繋がっている。
戦争もまた、震災同様忘れてはいけない歴史の一つである。
後世に伝えていくことの重要性は、重々承知している。
元々興味があったということもあるが、常々私は少しでも曾祖母の戦争体験が知りたいと思っていた。
しかし生前、曾祖母はあまり多くを語らなかった。私のエゴではあるが、辛いとしてももっと語ってほしかった。
その思いが自分の中でぐるぐると渦巻くうち、自分にも口を閉ざしていることがあると気づいた。震災体験だ。
このままではいけないと焦り始めた。
そして震災から11年という今、筆を執った。
私の経験などちっぽけなものではあるが、少しでも何か感じてくださる方がいれば嬉しい。
そして、以前の私同様、語ることが嫌になっている方や辛い方には、どうか無理だけはしないでほしいと思う。
しかしそれでも、いつか気持ちが落ち着いたとき。少しでも構わない。あなたの声を聞かせてほしい。
東日本大震災 あのとき ①
当時私は中学生だった。
「その時」は体調を崩し、学校を早退してきて、部屋で休んでいるところだった。
震度を言うと住所がバレる可能性があるので伏せるが、それはもう大きく激しい揺れだった。
非日常の始まりだった。
同居していた祖父母はすぐに町内の見回り等に出かけ、家には私と曾祖母だけになった。
大変なことが起きた。それ以外何も分からないまま、二人で寄り添い合いながらラジオを聞いていたのを覚えている。
私が居なければ、曾祖母は家に一人になっていた。この時ばかりは体調不良に感謝した。震災の数年前に亡くなった曾祖父が、曾祖母を守れと、私を家に帰してくれたのかもしれないと信じたくなった。
また、我ながらこれはナイスプレーだと思うのだが、私は地震発生後すぐに、両親や親族に宛てて家族は無事である旨のメールを送った。
岩手・宮城内陸地震の際に、メールや電話が繋がりにくくなったことを覚えていたからだ。
災害伝言ダイヤル等を利用すればなおよかったのかもしれないが、そこまでは気が回らなかった。
数時間後。両親が帰ってきた。
母は帰宅してすぐ、半泣きで私を抱きしめた。
私も泣きそうになったが、ぐっと堪えた。
当時はまだガラケーの時代。父の携帯のワンセグでニュースを見た。
津波や火災の映像。何が起きたのかを思い知らされた。
ラジオは当然聞いていたが、映像が与えるインパクトは段違いに強烈だった。
ライフラインが完全にストップした中でどうしたのかは覚えていないが、何とかお湯を沸かしてカップラーメンを食べた。
シーフードヌードル。味がしなかった。
その日は家族全員で茶の間に集まり眠った。
翌日から、水や食料を求めて駆け回る日々が始まった。
当時大家族だったのだが、食料の無償配給で「大家族なんです。」と言ったのを信じてくれ、人数分きちんとパスタをくれた近所のローソンの店員さんには感謝しかない。
ライフラインは暫く復旧しなかった。
電池式ラジオがほぼ唯一の正確な情報源だったが、回ってくるチェーンメールが不安を煽った。
雨の中外に出ると、「放射能が雨に溶けて降り注いでいる」というメールを信じた母に、本気で怒られた。
何通も送られてくるチェーンメールには本当に辟易したが、誰もが不安だったのだろう。
この非日常はいつ終わるのか、毎日余震に怯えながら、皆が必死に生きていたのだ。
(続く)