東日本大震災 あのとき ①

当時私は中学生だった。

 

「その時」は体調を崩し、学校を早退してきて、部屋で休んでいるところだった。

震度を言うと住所がバレる可能性があるので伏せるが、それはもう大きく激しい揺れだった。

非日常の始まりだった。

 

同居していた祖父母はすぐに町内の見回り等に出かけ、家には私と曾祖母だけになった。

大変なことが起きた。それ以外何も分からないまま、二人で寄り添い合いながらラジオを聞いていたのを覚えている。

私が居なければ、曾祖母は家に一人になっていた。この時ばかりは体調不良に感謝した。震災の数年前に亡くなった曾祖父が、曾祖母を守れと、私を家に帰してくれたのかもしれないと信じたくなった。

 

また、我ながらこれはナイスプレーだと思うのだが、私は地震発生後すぐに、両親や親族に宛てて家族は無事である旨のメールを送った。

岩手・宮城内陸地震の際に、メールや電話が繋がりにくくなったことを覚えていたからだ。

災害伝言ダイヤル等を利用すればなおよかったのかもしれないが、そこまでは気が回らなかった。

 

数時間後。両親が帰ってきた。

母は帰宅してすぐ、半泣きで私を抱きしめた。

私も泣きそうになったが、ぐっと堪えた。

 

当時はまだガラケーの時代。父の携帯のワンセグでニュースを見た。

津波や火災の映像。何が起きたのかを思い知らされた。

ラジオは当然聞いていたが、映像が与えるインパクトは段違いに強烈だった。

 

ライフラインが完全にストップした中でどうしたのかは覚えていないが、何とかお湯を沸かしてカップラーメンを食べた。

シーフードヌードル。味がしなかった。

その日は家族全員で茶の間に集まり眠った。

 

翌日から、水や食料を求めて駆け回る日々が始まった。

当時大家族だったのだが、食料の無償配給で「大家族なんです。」と言ったのを信じてくれ、人数分きちんとパスタをくれた近所のローソンの店員さんには感謝しかない。

 

ライフラインは暫く復旧しなかった。

電池式ラジオがほぼ唯一の正確な情報源だったが、回ってくるチェーンメールが不安を煽った。

雨の中外に出ると、「放射能が雨に溶けて降り注いでいる」というメールを信じた母に、本気で怒られた。

何通も送られてくるチェーンメールには本当に辟易したが、誰もが不安だったのだろう。

この非日常はいつ終わるのか、毎日余震に怯えながら、皆が必死に生きていたのだ。

 

(続く)